会社沿革
History
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ルーツは明治年間。
久留米絣の染色に欠かすことのできない
阿波藍の販売が始まりで、
以後、ゴム工業薬品、一般工業薬品、樹脂、
昇降機等々、取扱商品を拡げてきました。
History
1887年(明治20年)に久留米で商いを始めた田中藍は、おかげさまで2022年に創業135年を迎えました。
創業時のストーリー、戦後の再興からの事業沿革をご紹介します。
田中藍株式会社の前身は、明治20 年頃(西暦1887 年)に田中宗太郎が久留米市瀬下町にて藍玉商売をスタートしたことから始まりました。当時、良質な藍玉の産地であった阿波藩(現徳島県)と久留米藩の間では多くの藍玉商が活躍していたのです。明治維新後の殖産興業奨励により久留米絣は隆盛。この時流にのり事業は拡大してまいりました。
1900年にわずか35歳で他界した創業者の精神を受け継ぎ16 歳という若さで藍商の世界に飛び込んだ田中宗。
各地から集まった業者に交じって堂々の交渉を行い、販路を拡大しながらも確実な取引を行い信用を勝ち取っていきました。
後に田中藍が化学品商社として成長していく礎となる久留米絣の製造に必要な苛性ソーダの取扱いも始めました。
大正末期から昭和初期に久留米絣は最盛期を迎え年間生産量は2百万トンを超えるほどに急成長。一方で安価で大量生産を条件とする近代的染色工業に適合する合成藍が日本の近代織物業に浸透していきました。
この時流の中、田中藍商店はドイツ産のインヂゴの取扱いを行い成長していったのです。
昭和8年に三井鉱山三池染料工業所(現三井化学大牟田工場)においてインヂゴが生産されると共に、田中藍商店は三井化学工業株式会社と特約店契約を締結しました。
この頃から一般化学工業薬品の取扱いを拡大し、日本の近代工業化、特に九州北部での化学工業の発展の一役を担うようになっていきました。
久留米空襲の被害をうけ全焼してしまった田中藍商店。事務所を倉庫に移転し事業を続け、通産省の命により化学工業薬品の配給業務に従事。
1948年(昭和23年)7月に称号を株式会社田中藍商店とし、田中宗が初代社長に就任しました。